Model Nation


視覚による現実逃避の旅

芸術写真家、トニー・ケリーが生み出す写真は見る者を視覚による現実逃避の旅へといざなう。

BY Brooke Mazurek

Tony Kelly

トニー・ケリー作品の豊かな色彩や光にはロサンゼルスの精気ともいうべきものが投影されている。

27歳のトニー・ケリーは報道写真家として順風満帆な生活を送っていた。アイルランドのダブリン出身で独学で写真を学んだケリーは、ダブリンの地元紙『イブニング・ヘラルド』で最年少カメラマンとして雇われたのを振り出しに、アイルランドの全国区メディアを経て、イギリスの新聞『ニューズ・インターナショナル』で活躍した。

「報道写真家の場合は観察者に徹することになります。その瞬間を記録するわけです」と、現在48歳のケリーは語る。対象はアフガニスタンでの戦争であることも、ワールドカップであることも、セレブやスーパーモデルであることもある。ケリーが当時撮った写真を見ると、まさに目の前の現実を記録したドキュメント、という印象を受ける。1996年には、ロックバンド「オアシス」のリアム・ギャラガーがアイルランドツアー中、U2のボノの口に舌を突っ込んだ場面を、世界でただ一人、写真に収めた。まだ「拡散」という言葉が流行する前の時代に、広く拡散することになった写真だ。

「毎日がワクワクとドキドキの連続だったからこそ、あれだけ頑張れたんだと思います。車を運転しながら昼食を取る、なんてこともざらでした」。そうケリーは振り返る。「目の回るような忙しさだったけれど、いい写真が撮れた時の達成感といったら、それはもう、ね」。

しかし彼はその後、こうした報道写真とは違った種類の写真に、惹かれるようになる。現実に即して撮るドキュメンタリー写真と異なり、写真家の頭の中のビジョンを投影する、コンセプチュアルな写真だ。きっかけになったのは、新聞社で時々任されていたファッション欄の撮影だった。その時、感情が高ぶる経験を何度もしたという。「世の中に自分でストーリーや世界観を創り出せる仕事はそうそうありませんが、これはまさにそんな仕事でした」。

同僚のカメラマンたちは、こうした欄を担当する時も普段と特にスタイルを変えず、モデルを指定の場所で撮影していた。だが、ケリーはモデルをビーチに連れ出した。そして、日常からの逃避に誘うような、幻想的な雰囲気の写真を撮った。こうした雰囲気はその後、彼のコンセプチュアルな作品に一貫して漂うことになる。「本当にやりたかったのはこれだ」。この時、ケリーはそう気が付いた。そして方向性を変えたいと考え、実際に変えることになる。

ケリーは27歳で仕事を辞めてスペインのバルセロナに移り、世界的に有名なフォトグラファー、ホセ・マヌエル・フェラテールの門を叩く。なかなか返事をもらえなかったが、約半年粘った後、アシスタントとして雇ってもらえることになる。これが人生の転機となった。

暗室でモノクロ写真の現像をしたことがある人なら、紙に像が現れてくる様子がどんなものかご存じだろう。印画紙を現像液に浸すと、白い紙に像の輪郭や色調が浮かび上がってくる。フェラテールがケリーにしたことも、まさにそれだった。“報道写真家” ケリーが本来の姿を見せ始め、“芸術写真家”ケリーになっていく──フェラテールの目には、きっとそんなふうに映っていただろう。

ケリーはフェラテールからこう助言されたという。「君のように報道写真家というバックグラウンドを持つ写真家はあまりいない。これまでと同じようにやりなさい。君自身のストーリーを作っていくんだ。その中にモデルを入れればいい」。また、照明機材にこだわる必要はないとも言われたという。「君の場合、光源は1つで十分だ。太陽だよ」。

ケリーの美的才能が開花し始めた頃、彼は師から、思い出すと今でもぞくぞくするというこんな言葉をかけられた。「君の作品にはアメリカの風景がよく似合う」。

そうしてケリーが初めてウエストハリウッドの地を踏んでから13年。ロサンゼルスは彼の作品の中心舞台になっている。ロサンゼルスは直接“背景”になるわけではないが、ケリーの作品の豊かな色彩や光にはロサンゼルスの精気ともいうべきものが投影されている。

今回、新作準備のためにブラジルに滞在しているケリーを訪ね、創造プロセスや制作の舞台となるロサンゼルスなどについて話を伺ってきた。※インタビュー記事は内容を要約し、編集を加えたものである。

The Good Life


Carpool


INTERVIEW WITH TONY KELLY

今はブラジルに滞在中ですね

ええ、来週ここで撮影をするので、準備をしているところです。リオデジャネイロは10年ぶりくらいですが、昔は撮影や遊びでよく来ていました。でもパンデミックの影響はやはり大きかったんでしょうね、ここもちょっと活気が失われてしまった気がします。まあ、今日が火曜日だからかもしれません。2,3日経てばはっきり分かるでしょう。


あなたにとってアイルランドとは何ですか?

アイルランドは私の土台であり、DNAです。DNAだというのは、身体レベルの意味ではなくて、社会的にも、あるいは視覚に関してもそうです。全てがそこから始まっています。外国を旅する時も、何かを眺めたり、アイデアやコンセプトを視覚化したりする時も、アイルランドというレンズを通して見ています。現在はウエストハリウッドに住んでいますが、今も一人のアイルランド人です。

アイルランドで育つということは、それ自体が独特な経験だと言えます。島国なのでいつも旅への憧れがあります。アイルランド人にとって、旅はとても重要です。人々は情に厚くて、たくましい。気候は寒かったり湿気が多かったりしますが、人々の心はとても温かいのです。また、アメリカではお金持ちが注目を浴びますが、アイルランドでは「誰が一番面白いか」です。面白い人が力を持ちます。


作品にはラグジュアリーなテイストも織り込まれていますが、こういった方面にはいつ頃から興味を持たれたのですか

駆け出しの頃、書店で『ヨットの世界』という雑誌を買ったのですが、そこに載っていた何百万ドルもするヨットのビジュアルに魅了されました。ファンタジーの世界に誘われたのです。お金を貯めて1000万ドルのヨットを買おう、という気になったわけではありません。今もそういう気持ちはないですね。私が心を動かされるのはそういうことではなくて、あくまでビジュアルです。現実からの逃避なのでしょう、おそらく。そして、これは私が今、人々に向けて発信していることでもあります。


ご両親も芸術関係の仕事をしていましたか

いえ、違います。父は印刷関係の仕事をしていました。母は主婦。母は仕事はあまりしていなくて、ギターやピアノを弾いたりしていました。彼女は音楽の才能があって、言われてみるとちょっと芸術家っぽいところもありましたね。


写真を始めたきっかけは?

気が付いたら撮り始めていました。もともとカメラが好きだったのです。自分にとってカメラは、ある意味、魔法の杖みたいなものでした。カメラのおかげで、大きな旅に出ることができました。サッカーの試合、いろいろなイベント、馬術の競技会にも行けました。18歳か19歳の頃、報道カメラマンのような役回りで催しに顔を出していましたが、報酬のために撮影していたというよりは、自分が好きでやっていたというのが実際のところです。それは今もほぼ同じです。


報道写真の撮影から学んだことは?

振り返って考えると、臨機応変に対応することですね。偉ぶるつもりは全くないのですが、今だとカメラが故障してもアシスタントや専門のスタッフが対応してくれます。けれど当時は全て1人でやっていました。カメラが壊れても、自分で直さないといけない。まだ新聞社に入る前のことですが、大事な写真を撮っていた時にストロボで失敗したことがあります。車の窓越しに撮影していたアイルランド首相の顔が、窓にストロボが反射して写らなかったのです。万事休す…でしたが首相が出席する行事の開催会場に張り付き、終わるまで待ってどうにか撮り直せました。粘り強さは間違いなく自分の持ち味です。最近、アルプス山脈で行ったヘリコプターとスキーリフトでの撮影もそうです。写真は撮れて、出来も悪くなかったのですが、私は空が不満でした。なので「問答無用。明日やり直しだ。いいのが撮れるまで撮り続けるぞ」と。こんなふうにやってきたのです。駆け出しの頃、自分なりに切り抜けてきた経験が原点になっています。


ファインアート作品の場合、制作はどのようなプロセスになりますか

最初から、完成した作品の全体像をイメージしています。それを感じて、色も見えています。そこから逆算で作っていくことも少なくないですね。ただ、私の仕事の哲学はとてもシンプルです。それは、「楽しむ」ということです。仕事は楽しまないといけない。何が人間の生活に欠けているか心理学者に聞けば、「楽しさ」という答えが返ってくるでしょう。楽しむこと、笑顔になることは、とても大きな力を持ちます。撮影はいつも楽しいとは限らないけれど、楽しめる要素は必ずあります。


ロサンゼルスはあなたの作品の鍵ですね。初めて訪れた日のことを教えてください

ロサンゼルスに到着した時の第一印象は「ここは好きじゃないな」――だったと記憶しています。ここの人たちはニセモノだと。アイルランドから来ると、空虚なものや軽薄な人々に敏感に反応してしまうのです。でも泊まっていたホテルである朝、部屋のカーテンを開けた時、変化が訪れました。ホテルはロサンゼルスの市街とサンセット大通りを見渡せる場所にあるモンドリアンでした。その朝は少し霧が出ていたのですが、カーテンを開けた瞬間、広告塔や丘が目に飛び込んできました。そして思ったのです。「ここが気に入った。ビジュアルに強い力がある」。

Turbulence


G-Wagon


創作のインスピレーションはどこから?

ジェームズ・ボンドのある映画でロータス(イギリスのスポーツカーメーカー)の車が桟橋から海に突っ込む場面があるのですが、今、これをフェラーリでやりたいと思っていて、準備もある程度できています。私はボンドから大きな影響を受けて育ちました。ヘリコプターに乗った美女。タキシードでびしっときめた男。こういうのが大好きなのです。

ここリオデジャネイロでも良い刺激をもらっています。『ライディング・ジャイアンツ』(2004年)というサーフィンのドキュメンタリー映画の中で登場人物の一人が(ハワイ、オワフ島の)ノースショアで初めて大波が来た時を振り返って、「嘘じゃないよ、彼女(波)は僕にウインクしてくれたんだ」と涙ぐみながら語る場面があります。リオデジャネイロではまだそうしたウインクにお目にかかれていませんが、それを待ち望んでいます。海があって、岩があって、緑がある。いろいろな色があって、さまざまな姿かたちの人がいる。リオデジャネイロは、それらが全部溶け合ったカクテルのような場所です。